かつて博之氏は「嘘は嘘であると見抜ける人でないと(掲示板を使うのは)難しい」といったようなことを言った。
しかしながら、それだけでは足りなかったのだと思う。
現代の陰鬱とした空気が、炎上などという馬鹿げた現象が、なぜ生まれたのか。それは、ただ単に「嘘を嘘であると見抜く」だけでは足りなかったからなのだと思う。
つまりは、こう。
「僻んだ他者の言動に触れても、自分の心までが僻まないでいられるような人でないと、インターネットを使うのは難しい」
たとえば、はてなブックマーク。コメントの中には、ピリピリしていて否定的だったり、皮肉が正義だと勘違いしていたり、後ろ向きなことを言う人がいる。それで、スターが多く付いていたりする。
このような言動に触れて、知らない間に感化されてしまう場合がある。
花火を見ても、「どれぐらいのお金がかかっているんだろうな」とか。
釣りで魚を逃したのを見て、「どうせ後でリリースするんだから」とか。
結局腹に入ればおんなじだと、安いものばかり食べるとか。ラーメンの原価が云々とか。
そういう、つまらない大人になってしまう場合がある。
日本を包みこんだ、居心地の悪い謎の空気の正体は、この僻んだ心にあるのだと思う。インターネットはその巣窟のようなもので、「嘘を嘘であると見抜く」と同等に、「僻んだ精神に侵されない」ことが大事であったのだと思う。
人は環境によって、善にも悪にも染まる。子どもが悪い友だちと付き合っていたら、心配になる。それはインターネットでも同じだが、いまやインターネットは情報化社会という趨勢の中で一段と許されている。気づかないうちに、僻んだ心の人が増える。
何者かに成りたい、というような人もいるが、それは心が捻くれて、日々の些細なことに満たされないがためであると思う。友人や家族と、旅行先で何か美味しいものを食べるとか、ちょっとした買い物を楽しむとか。それがまず楽しめていないのなら、そこに問題の根本を認める。
改めて言う。
僻んだ言動に感化されない人でないと、インターネットを使うのは難しい。