近代化と不幸せについての一説

 娯楽が麻薬化しているのではないだろうか。

 文明が高度になるにつれて、娯楽ももちろん鮮美になる。美しい娯楽はそれだけで生きる甲斐になる。

 たとえば想像してみてほしい。華美な娯楽が失われたら、私達は、今まで通りの高負荷な生活に耐えられるのかどうか。

 

 ある初秋の宵に、僕は娯楽に支えられているのではなく、娯楽に正常な痛みを塗りたくられている感覚に陥った。娯楽から離れて一息つくと、隠されていた身体の病症が浮かび上がってくる。

 中毒症状とまではいかなくても、痛みから逃げる手段として、娯楽はやや過剰に感じた。なぜなら、痛みとは本来不調のサインであるから。心理的ストレスが発散できるのなら宜しいが、身体の痛みを無視するとなれば、話は変わってくる。

 病院にかかるならよい。しかしながら、子どもたちには、大人たちには、代わりに娯楽に溺れ逃げるという選択があるように思う。

 つまりは、病気の兆候を活用できない。小さな不調は静かに生体のバランスを崩してゆく。様々な器官に疾患が生じて、込み入り、混じり、被害状況を瞭然にすることは難しくなる。

 

 ……。

 

 図式化すると以下となる。

 「娯楽の高度化 ≒ 痛みのごまかしの容易化 → 病症の深刻化・多岐化」

 

 基本的に、人が不機嫌なのは生物学的に説明できる。お腹が空いていれば怒りやすくなるし、別の所で嫌なことがあればひねくれる。

 逆に、体中の病原体を根絶するぐらいの健康を得た場合には、過去も綺麗になり、その上社会の中に居場所ができれば、不遇者も更生する。

 

 近代化不幸の一説として挙げてみた。もちろん、理由を一つや二つに断定できるものでない。当然インターネットや政治、その他も関係している。

 近年心の病気が注目されている気がする。それも、娯楽というよりネットに落ち込める場所があるがためではないだろうか。言い換えれば、何か身体や心に違和感があったとき、気づくか気づかないかくらいのとき、ネットや娯楽に流されて、そのままグラデーションに病巣をなしてしまうのではないか。

 

 痛みを、色んなものでごまかせてしまう。

 酒、色事、ギャンブル、ゲーム、インターネット。

 

 追記される問題点は、病院に症状を伝える困難姓がある。