名づけについて

 掴みどころのない気持ちがあった。

 その心情はどうやら、内祝いに書かれた、親戚の子の命名から来ていた。

 

 漢字2文字で、総画9画。一見での読みはやや難しい。

 第一印象で違和感があった。考えるに、読みが一番馴染まなかった。

 その子の立場のもしもを思うと、どうにも遣りきれない。

 

 

 子どもの名づけに関する、似たような話はときどき目にする。

 

 畢竟、想像が足りていないのではないか。

 第一、その子はいずれ二十歳にもなるし、老爺老婆にもなる。「子ども」という視点のみで、名づけるべきではない。

 第二、その子は望んだようにも、望まなかったようにも育つ可能性がある。

 第三、子に望む思いを、必ずしも名づけを通して与える必要はない。刻銘は侵犯なり得る。

 第四、自分がその名を貰ってどう思うか。

 第五、他者がその名であってどう思うか。同じクラスに、面接に、国会議員にその名があったらどう思うか。

 

 

 そうして。

 理屈な自分はきらいだ。

 

 上記の、昨日ぶちまけた苛立ちを顧みて、僕はその命名と向き合い、字面に何度も筆してみた。

 馴染む。

 名字の画数との不均衡と思われたものが、逆に、軽く自由な印象を与える。

 では問題の読みはと言うと、多少鼻につく、しかし、漢字から導かれる読みとしては一番自然であるように思える。

 

 小生豹変す。僕の癖というのは、話を大仰にして病むというものだ。真面目な性格の災いは、ストレス対処が下手なこと。

 

 

反省会

 僕の物事に対する反応の仕方を今、振り返ってみる。

 第一に、感じた違和を強める形で、思考は活動した。

 際立って悪い名前ではなく、当然のこととして、名づけ主は愛を込めている。昔親しかった義兄のことだ、ずいぶん時間をかけたに違いない。

 にもかかわらず、それを度外視し、初めの感覚を後援するように理屈固めしていく様は、石部金吉を自覚する所以である。

 

 反発は一種人間の自然な反応だが、利害得失のわきまえに乏しい。

 

 名前の重要性は、容貌のそれ以上であると僕は考えている。何せ、僕自身平等でないから。ただ、今回の指摘は、自分の感性の独善であった。

 産まれてきた彼女のことを考えても、害なり得るは、僕のような人間だ。