客観視

 まず、世界が丸ごと入ってしまいそうな、この私たち脳の中に、人格が一つしかない、ということが奇妙なことだ。

 

 「自分を客観視できてない」というのは、否定的な言い回し。

 それで、ある程度分別もついた今では、一日で数えてかなり長いあいだ、客観視が働いているように思う。

 たとえば、スマートフォンのちょっとしたゲームアプリで遊んでいるとき、同時に、「人生を無駄に浪費してるな」「他になにか有益で楽しいことはないの?」といった心持ちも生じている。

 

 この分析の中ですでに、2人の「私」らしきものがいる。

 2人だから、どっちが本物? って思う。

 

 詳しくはないが、統合失調症は以前、「精神分裂病」と呼ばれていた。つまり、精神的な自己が、分裂、複数に分かれたようになる。もしくは、自分が自分でないような気分になる。

 

 たとえば苦しんでいるとき、前者は必死に狼狽えている。後者はその上冷静で、対処的行動を促す。後者は、苦しみを逃れるための行動手立てを、能う限り実行するが、報われない場合には諦めることもある。

 僕は実際に苦しんでいるのだから、前者は自分であるはず。

 それでいて、行動を考え実行する後者の感覚も、自己的なものだ。

 

 だからどちらも「私」ではある。当然ながら。

 右足と左腕が、同じ持ち主のものなのはなぜか。僕は今、それさえ疑わしく思った。暑いと思いながら、同時に、寒いと思うこともある。

 その理屈で行けば、自分と、自分を客観視する自分が、別個のものに思えるのは、その感覚の性質が真に異なるから、ということだろうか。つまりは、思考の中にも、熱いものや寒いものがある、ということ。

 それは脳内伝達の経路が違うのかもしれないし、ただその電気信号が違うのかもしれない。

 結局、根本には、「私という意識とは何なのか」という謎がある。

 

 超自我だったり、主観的自己、客観的自己について論じたのが、フロイトと聞いているから、読んでみることも検討する。

 仮に精神病において、実際に精神が分裂していたとしたら、たとえば自律神経と同じような機構で、精神の単一性も保たれていると考えられる。言い換えれば、「自己」を保つのは、粒粒辛苦というわけ。

 

 徒然。